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函館に歴史を刻んだ偉人⑤沢辺琢磨(山本数馬)

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写真:沢辺琢磨(函館市中央図書館所蔵)
山本数馬(のちの沢辺琢磨)は、幕末の大政奉還に大きな影響を与えた坂本龍馬の親戚に当たり、年齢が同じために親交が大変深い間柄でした。高知藩の江戸藩邸詰めの時、数馬は酒に酔って窃盗事件を起こして切腹を免れない状況に追い込まれるも、龍馬らの手助けにより、江戸を逃れます。彼はその足で仙台、会津などをまわり、新潟で後に「郵便の父」と称される前島密と出会い、「箱館は文明開化の街、いま日本で新しいことを学ぶなら箱館しかない。それに四民平等の街とも聞いています」と箱館行きを勧められました。
1858(安政5)年の春、箱館に着いた数馬は、宿泊中の旅館で強盗退治をした縁で、これに感謝した宿の主から、箱館神明社(現・山上大神宮)境内に建ててもらった堀立小屋の道場を進呈されます。ここの宮司・沢辺悌之助に後継ぎがいないために娘の婿養子の話が持ち上がり、数馬は沢辺琢磨に改名。神官として生まれ変わることになりました。
 
当時、既に開港していた箱館で、ロシア領事館に付属するロシア正教会のニコライ神父は、日本の古典文学や歴史を研究し、領事館員の子弟に日本の武術を学ばせたいと望んでいました。その指南役となったのが琢磨でした。攘夷論者だった琢磨はニコライに対し、日本侵略に向けた情報収集との疑念を抱き、ニコライ殺害をも辞さぬ覚悟で、大刀(北海道坂本龍馬記念館に展示中)を腰に帯びて訪れ、日本研究の意図を詰問しました。
 
理路整然と答えるニコライは、琢磨にハリストス正教の教えを知っているかと逆に質問。「ハリストス正教が如何なるものかを知ってからでも遅くはなかろう」と諭します。琢磨は以後、ニコライの教えを学んでいくうちに心服し、ついにはキリスト教禁制下の1868(明治元)年、医師の酒井篤礼や浦野太蔵とともに教会の地下室で、秘密裡にニコライの洗礼を受け、日本ハリストス正教会最初の信者となります。受洗後も神明社宮司の座に留まっていましたが、やがて神明社を去ります。禁教下において神道の祭司職が邪教へ改宗したということで、琢磨一家に対する迫害は非常に厳しく生活は困窮を極めます。その後、琢磨は妻子を残して函館を一時脱出して東北地方を布教中、2度にわたり投獄の苦難を味わいました。明治政府によって禁教が解かれて自由の身になると、1875(明治8)年に日本人最初の司祭となり、ニコライ神父と共に伝道活動に邁進しました。なお、龍馬はその後暗殺されたため、二度と対面することはありませんでした。

※執筆:箱館歴史散歩の会主宰 中尾仁彦(なかお とよひこ) 2010/08/01公開

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