開港場の水際
-
函館古地図マップで、明治の町並みを巡る
開港場の水際
幕末開港後の外国船の入港手続き(入国・貿易)は基坂下に設けられた税関で、和船の手続きは弥生坂下の船改所で行われた。日和坂下の東浜桟橋は、連絡船乗客の上陸地点。弁天砲台からこの3カ所を結ぶ岸壁が明治初期の函館の主要港湾施設であり、現在も緑の島の陸側(旧大町外国人居留地)から臨界研究所(旧船改所)までの岸壁には明治初期の石積みが残り、快適なプロムナードとして整備されている。
1.砲台 (弁天砲台)
現在:函館漁港(防波堤)
弁天砲台は、ペリー来航と箱館開港を契機に、港湾防備を目的に五稜郭と同時期に着工された。工期7年を要し、元治元(1864)年竣工した。15門の大砲を備え、箱館戦争時は旧幕府脱走軍指揮下の新選組が布陣した。明治29年に取り壊され、跡地は拡張されて現在の函館どつくになった。石垣の石は、同32年に完成した北海道初の近代港湾施設である函館漁港の船入澗防波堤に転用された。同防波堤は、平成25年に大規模な修復工事を実施、往時の姿を復元した。
2.弁天 (弁天社)
現在:厳島神社
豊漁、海上安全を祈願する神社で、享和元(1801)年、弁天の沿岸(現在の函館どつく入口付近)に島を造成し移転した。文化9(1812)年に一度移転後、安政4(1857)年の弁天砲台築造にあたって現在地に再度移された。現在は厳島神社と称し、市電函館どつく電停前に建つ。高龍寺や外国人墓地に向かう坂(魚見坂)の起点にある。
3.造船所 (島野造船所)
現在:はこだてマリーナ
島野造船所は西浜町の海岸900坪を埋め立て、明治8年から営業を開始した。明治初期には、トムソン・辻と並び函館の3大造船所にも数えられた。現在は整備されてはこだてマリーナとなっている。隣接の幸町はその後埋め立てが進み、現在は西埠頭として自衛艦などが繋留されている。
4.船改所
現在:臨海研究所
江戸時代は沖の口番所と称し、入港する船の積み荷・旅人の検査と徴税を行った。その後、海官所、海関所と名称が変わり、明治8年から船改所(ふなあらためしょ)と称したが、同20年廃止。同18年からは水上警察署が同じ建物にあった。大正15年に水上警察署として建屋を新築した後、函館西警察署として昭和59年まで使用。現在の建物は平成19年に、大正15年当時の外観を忠実に復元したもので、臨海研究所として使用されている。
5.造船所 (辻造船所)
現在:おぐま冷蔵倉庫
辻造船所は明治8年、仲浜町の海面約1800坪を埋め立て、同11年に開業した。創業者の辻松之丞は幕末期に西洋帆船の建造経験があり、常に技術改良に意欲的だったといわれる。同26年廃業。その後は小熊倉庫などが建ち並ぶことになった。現在はおぐま冷蔵倉庫がある。隣接の新島橋からは、港内の浚渫泥で築かれた緑の島へ渡ることができる。付近の岸壁は明治時代の石積みが残り、プロムナードとして整備されている。
6.外国人 (大町外国人居留地)
現在:公海食品倉庫
開港後、箱館奉行は大町の海面を埋め立てて外国人居留地とすることを計画。約2000坪の埋め立て地が万延元(1860)年竣工。アメリカ・イギリス・ロシアの商人ら9名に貸し与えられた。敷地が手狭だったこともあり、外国人商人から再三不満が出て、地蔵町などに新たな居留地が設けられるようになる。現在は公海食品倉庫が建つ。
7.税関
現在:海上自衛隊函館基地隊
安政6(1859)年、輸出入貨物の監督、関税徴収を目的として設置された運上所(弁天町)に始まる。その後、仲浜町に新庁舎を建て、明治6年に函館税関と改称。同44年にルネッサンス様式の建物に建て替えられた。昭和43年、税関が海岸町に移転したのを機に取り壊され、跡地に海上自衛隊函館基地隊の施設が建った。構内には、税関当時の石積みの岸壁などの遺構がある。
8.桟橋 (東浜桟橋)
現在:旧桟橋
日和坂下の桟橋は、明治4年開拓使により設けられた。鉄道連絡船の桟橋ができる同41年までは、船客が港内に碇泊した船舶からはしけに乗り換えて上陸する桟橋で、文字通り「北海道第一歩の地」であった。函館駅近くの鉄道桟橋ができて以降は使われなくなり、現在は旧桟橋として整備され、ベイエリアの夜景を楽しめる絶好のスポットになっている。