台町の表情
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函館古地図マップで、明治の町並みを巡る
台町の表情
明治11・12年大火の焼失戸数は3000戸以上で、当時の函館の市街地の大半が失われた。開拓使は被災地の復興にあたって、寺社や学校など広い敷地をもつ施設を坂の上の台町などに移転させ、跡地を商工業・住宅地として再編成した。高龍寺、称名寺など多くの寺が移転し、商業学校をはじめ多くの学校がこの後、函館山のふもとの高台に立地するようになる。また、同時に実施された街区改正の結果、山麓の坂や通りの拡幅と直線化が図られ、今日の西部地区の町並みの骨格が造られた。
9.臺町貸座敷
明治6年、開拓使は貸座敷業の営業地として豊川町・台町(臺町)・蓬莱町の3か所を指定し、公娼制度が存続した。臺町貸座敷(だいまちかしざしき)は20軒ほどの規模にとどまり、次第に蓬莱町の隆盛に圧されるようになっていく。
10.清光院
現在:真言寺
天台宗の寺院、文久元(1861)年、天神町に創建、明治6年台町に移転。現在は真言寺。
11.地蔵堂
現在:地蔵寺
開創時は不詳。享和2(1802)年まで山ノ上町にあり、各宗派共同の火葬場だった。その後台町に移転、山背泊地蔵寺として親しまれてきた。石像、石仏が多いが、前庭にある元治元(1864)年建立の「有無両縁塔」が有名。台町の遊女屋が合同で遊女の供養として建てたもの。
12.髙龍寺
現在:高龍寺
曹洞宗の寺院で壮大な伽藍を有する。寛永10(1663)年亀田に建立され、宝永3(1706)年幸坂下に移転。明治12年現在地に移転した。同33年に本堂、同44年には山門が竣工。明治2年の箱館戦争の際に旧幕府軍の野戦病院となった際、ここで斬殺された会津藩士を供養する「傷心惨目(しょうしんざんもく)の碑」が本堂脇にある。墓地には勝海舟と親交があった渋田利右衛門や、日本最初に種痘を行った中川五郎治の墓などがある。
13.墓地
(由来・現在地ともに不明)
14.称名寺
現在:称名寺
称名寺(しょうみょうじ)は浄土宗の寺院。亀田に創建され、宝永5(1708)年、現在の弥生小学校付近に移る。安政元(1854)年、外国人休息所となり、安政6年イギリス領事館(フランス領事館を兼務)が置かれた。明治12年の大火で焼失、同14年現在地に移転する。境内には新選組副長・土方歳三の供養碑、豪商・高田屋嘉兵衛の顕彰碑などのほか、著名人の墓も多数。
15.実行寺
現在:実行寺
実行寺(じつぎょうじ)は日蓮宗の寺院。明暦元(1665)年創建。現在の弥生小学校付近にあり、外国船入港時の外国人休息所となる。安政5(1858)年ロシア領事の宿泊所となり、同6年にはハリストス正教会の祭祀堂が設置された。明治12年の大火で焼失、同14年現在地に移転する。現在の建物は1918(大正7)年築。境内に「日仏親善函館発祥記念碑」など碑多数。