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函館に歴史を刻んだ偉人③武田斐三郎

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写真:武田斐三郎(函館市中央図書館所蔵)

五稜郭の設計で有名な武田斐三郎は伊予大洲藩(現在の愛媛県大洲市)出身で、当代一流の学者に巡り会い、大阪で佐久間象山から航海・築城・兵学を、そして緒方洪庵から蘭学を学びました。その多才多能ぶりから、東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチと称されるほどです。五稜郭内にある斐三郎の彫像の顔が輝いているのは、触ると頭が良くなるという噂が広まり、多くの人に撫でられてきた証しです。
1854(安政元)年、蝦夷地を巡回中だった斐三郎はペリーの箱館来航に遭遇し、中国人通訳・羅森との筆談通訳を務めます。翌1855(安政2)年には箱館奉行所詰を命じられて器械製造と弾薬製造を担当し、また入港中の外国船について、艦船の製造、砲台の築造などの方法を学びました。幕府は1856(安政3)年、箱館奉行・堀利熙(としひろ)の発案で、蝦夷開拓や警備に必要な知識、技術の開発を箱館来港の外国人から伝習しようともくろみ、併せて人材の養成を目的にした教育機関として、「諸術調所」を開きます。当時は身分制度の厳しい時代でしたが、斐三郎は士族と平民を区別せず、すべて試験で入学を許可します。蘭学、測量、航海、造船、砲術、築城、化学などの近代的学風により全国から多くの人材を集め、斐三郎の実用主義教育は、後にわが国の産業、文化に貢献する有為の人材を輩出します。門下生には、前島密(郵便の父)、井上勝(日本鉄道の創始者)、蛯子末次郎(海運業)、吉原重俊(日銀総裁)、今井兼輔(海軍大臣)などがおりました。

斐三郎は1856(安政3)年に停泊中のイギリス船で、役人・梨本弥五郎とストーブの実物をスケッチし、その半年後に箱館の鋳物職人・源吉に6台を作らせます。これが日本最初のストーブです。1859(安政6)年、続豊治設計の日本最初の洋式船・箱館丸(箱館奉行所付属船)で、門下生と日本最初の実習航海で日本を一周。1861(文久元)年には2号の亀田丸で、日本最初の見本市船としてロシアとの貿易に乗り出します。また、五稜郭や弁天岬台場を設計築造し、尻岸内(現在の函館市内)に溶鉱炉や煉瓦製造所を造る(未完)など、その活動範囲も多方面に渡りました。

1864(元治元)年、五稜郭の完成を見ることなく江戸の洋学所(東京大学の前身)の教授並として転出を余儀なくされ、たった一人で全ての学問を教えていた「諸術調所」はほんの8年間で廃校となります。理論を主とした江戸蕃書調所に並ぶ洋学校だったため、消滅しなければ東京大学同様に北海道最初の帝国大学になっていたかもしれません。

明治維新後も兵部省出仕、兵学大学校教授等を務め、1880(明治13)年に東京で没しました。享年54でした。なお、斐三郎の妻・美那子は、1854(安政元)年にペリーが箱館へ来航した際の状況を克明に記した「亜米利加一条写」の著者で、名主・小島又次郎の妹です。斐三郎が箱館を訪れた翌年の1855(安政2)年に結婚したものの、1863(文久3)年に27歳の若さで病没。東本願寺函館別院船見支院(市内船見町18)に墓があります。
 
※執筆:箱館歴史散歩の会主宰 中尾仁彦(なかお とよひこ) 2010/08/01公開

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