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箱館奉行所と箱館開港物語

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「箱館真景」(函館市中央図書館所蔵)

津軽海峡に面する函館港は、函館山の麓から西方へ湾曲した海岸線に位置します。江戸後期に来航したアメリカのペリー提督が、船上から見た絶景に驚嘆したほどの天然の良港。鎖国を解いて開港してからは異国文化が移入し、今日の西部地区に見られる美しい町並みを形成するに至りました。港内を行き交う船舶は帆船、連絡船、北洋船団の時代を経て、イカ釣り漁船、貨物船、フェリーなどへとその姿を変えましたが、市内中心部に響き渡る汽笛の音は、港町ならではの風情を醸し出してくれています。
 
2009(平成21)年には、函館の歩んできた長い歴史に、開港150周年という新たなページが刻まれました。それから1年。函館、そして日本の歴史を変える舞台となった建物が、解体から139年の時を経て、夏真っ盛りの7月29日に復元・公開されました。その名は「箱館奉行所」、正式には「箱館御役所」と呼ばれ、城郭のイメージが強い五稜郭にその姿を現しました。多くの歴史的建造物が軒を連ねる、国内有数の観光地・函館に誕生する新名所は、見物のため訪れる人々に何を語りかけてくれるのでしょうか。


高田屋嘉兵衛、そしてペリー来航と箱館開港
 
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「高田屋旧蔵箱館絵図」(函館市中央図書館所蔵)
 
日本が欧米に対して全面的に開国したきっかけは1853(嘉永6)年のペリー来航ですが、カムチャツカ半島からベーリング海にかけて勢力を伸ばしてきたロシアは、樺太・千島、さらには不凍港を求めて蝦夷地にも進出の機をうかがい、日露両国の衝突は必然でした。1792(寛政4)年に女帝エカテリーナ二世の特使ラックスマンが、大黒屋光大夫ら漂流船員の送還という名目で根室と箱館に来航し、あわせて国交通商を要求します。幕府は北方に目を向けざるをえず、東蝦夷地を松前藩統治から幕府直轄領とし、1802(享和2)年に箱館奉行所を設置します。
 
豪商・高田屋嘉兵衛は日露対立の最中、幕府との協力により、択捉・国後、根室の漁場を開拓し、海産物を箱館(現在の函館)に集荷。それらを関西方面に運ぶ中継港として、箱館は重要な役割を果たすようになります。その後、嘉兵衛はロシアに捕らえられながらも、献身的な姿勢を認められて信頼を得ます。しかし、ロシアとの密貿易の嫌疑で、1833(天保4)年に高田屋の膨大な財産が没収され、箱館は一時火の消えた町となります。
 
1854(安政元)年、翌年に控えた開港の下調べをするため、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が箱館に来航しました。情報不足の松前藩はもとより、地元住民も大混乱に巻き込まれます。翌1855(安政2)年にアメリカをはじめ、イギリス、ロシア、オランダと次々に和親条約を締結し、緊急避難港、そして薪水・食料の補給港として世界に門戸を開きました。さらに4年後には、本格的な国際貿易港として横浜、長崎と共に開港し、各国の捕鯨船や商船そして軍艦が続々と箱館港を訪れます。
 
 
蝦夷地幕府直轄と防衛構想
 
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左:箱館でのペリー会見の様子(函館市中央図書館所蔵)
右:「『蝦夷錦』千代岡陥落の図」(函館市中央図書館所蔵)
 
鎖国を解いた幕府は、諸外国に対する防衛策として、ペリー来航の2カ月後に箱館とその遊歩地域5里(約20キロ)四方を松前藩から没収し、幕府直轄とした上で、箱館奉行所を函館山の麓(現在の元町公園付近)に設置します。さらに幕府は北方防備のため、五稜郭築造と7つの台場築造を計画するのでした。
 
さらに1855(安政2)年には防備を一段と強化するため、蝦夷地の大半を幕府の直轄地とし、松前・弘前(津軽)・盛岡(南部)・久保田(秋田)・仙台の5藩が防備を分担します。弘前藩は千代ヶ岡(もしくは千代ヶ岱。現在の千代台町付近)、盛岡藩は現在の元町配水場付近にそれぞれ陣屋を設置しました。松前藩も戸切地(現在の北斗市野崎)に、4つの突出した保塁と6門の砲座からなる西洋式城郭を設け、郭内に陣屋を配置します。現在はサクラの名所として、春に多くの花見客でにぎわいを見せます。
 
 
箱館奉行所設置
 
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左:左奥に建つのが元町にあった箱館奉行所とされる(函館市中央図書館所蔵)
右:箱館亀田一円切絵図(函館市中央図書館所蔵)
 
箱館奉行所の任務は、千島・樺太を含む広大な蝦夷地の開拓と統治、箱館開港に伴う対外関係の円滑化でした。さらに箱館を中心とする海岸防備も急務で、箱館奉行の人数は当初2人でしたが、後に3人体制に強化され、その任務の重要度を増していきます。
 
開港後、外国人に五里四方の遊歩を認めたことで、箱館山から見下ろされる等の安全上の見地から、少しでも市街地から遠ざけ、また箱館湾からの各国軍艦の標的にされない場所への移転を考えます。第一候補に大野市渡(現在の北斗市内)、第二候補に神山(現在の函館市内)が挙がりました。しかし、通信手段が不十分な時代ゆえ、港および弁天岬台場との連絡を円滑にするには遠すぎるために、港から直線距離で3.5キロ離れた(当事の大砲は3キロ程度しか飛ばないとされたのが理由)、亀田の中心にあたる現在地に妥協します。当時、元町の奉行所は水不足で悩んでいただけに、亀田川の水を容易に取り込めるのも選定理由の一つでした。
 
1454(享徳3)年、津軽から渡来した河野政通がアイヌとの戦いのために「館」を設置以来、時代の転換とともに組織体は変わろうとも、常に本拠を元町に構えてきた箱館のお役所が、初めて亀田・五稜郭へ移ることになります。
 
 
武田斐三郎と五稜郭設計
 
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「五稜郭初度設計図」(市立函館博物館所蔵)
 
設計には、大洲藩(愛媛県)出身の蘭学者・武田斐三郎(あやさぶろう)があたります。1855(安政2)年、和親条約を締結していなかったフランスのコンスタンチーヌ号など3艘の軍艦が、傷病を負った乗組員の治療を求めて箱館港に緊急入港。箱館奉行・竹内保徳は幕府の許可を得ることなく、人道上の問題として実行寺に70人を入院させます。その際、武田斐三郎はコンスタンチーヌ号副艦長から、星型をした郭内に都市を取り込んだパリ郊外にある城塞都市の絵図を示され、五稜郭の原案に取り入れたと言われています。
 
五稜郭は、形状からどの方向からでも敵に応戦できる強固な軍事施設とされますが、実際は政治的・外交的機能を持つお役所のため、大砲は備えていませんでした。日本で最初の西洋式築造ではあるが、ヨーロッパで16世紀には存在した旧式の西洋式城郭をなぜ武田斐三郎が建造したのかという意見が一部にあります。それは、諸外国に日本の軍事力と技術力を誇示し、外交を円滑に進めることに大きな意義があったからなのです。それだけ日本と外国との差はあらゆる面で歴然で、その後の商取引においても不当な取引が長く続きました。
 
 
箱館奉行所建築工事
 
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五稜郭内庁舎平面図(函館市中央図書館所蔵)
 
奉行所の建築は中川伝蔵(代人父源左衛門)が請け負い、大工棟梁を務めたのは大岡助右衛門です。大岡は箱館戦争の終戦後、侠客の柳川熊吉と協力し、官軍の命に逆らって、路上に捨て置かれた榎本軍兵の死体を収容した人物として知られています。1861(文久元)年に建築は開始され、建材は秋田能代の松、杉、栗を使用。能代で加工した後に箱館へ運び、組み立てるという、現代でも通用するノックダウン方式でコストダウンが図られました。
 
建物は、東西最大の長さ約97メートル、南北最大の長さ約59メートル、建物面積約2658平方メートル(約800坪)と広大です。総部屋数70室の3分の2は執務室が占め、100人以上の役人が勤務し、残りは奉行とその家族の居住スペースでした。このほか、武器庫、食料庫、稽古場、馬厩、仮牢など20数棟の付属施設もありました。また、裏門橋の後方に、同心長屋50軒、役宅46軒の合計約100軒が建ち並んでいましたが、箱館戦争時に榎本軍によって放火され焼失しました。
 
築造と同時に境界と砲弾遮蔽のため、郭内に100本(88本現存)、周囲に数千本の赤松が移植されましたが(市立函館高校、大妻高校付近に一部現存)、箱館戦争時はまだ伸びず何の役にも立ちませんでした。
 
蝦夷地始まって以来の大型工事ゆえに、箱館の商人・杉浦嘉七、山田寿兵衛などが全国から石工、人夫5000~6000人を集め、裏門橋付近には湯屋、料理屋が開店するなど、箱館の経済に大いに貢献しました。
 
 
弁天岬砲台築造
 
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左:函館山山麓付近から見た弁天岬台場(函館市中央図書館所蔵)
右:弁天岬台場の入口付近(函館市中央図書館所蔵)
 
五稜郭築造と同時に、箱館奉行は箱館港周辺7カ所に台場の構築を幕府に願い出ます。しかし、予算の関係上、弁天岬台場のみ工事が認められました。弁天岬台場は五稜郭とほぼ同時期に完成します。面積は五稜郭の7分の1ですが、総工費はほぼ同額の工事費10万両で、五稜郭にはないアーチ式入り口を設け、箱館山の石と大阪から運んだ岡山の石を利用して、15から16門の大砲が設置されました。工事に携わったのは、五稜郭と同じ武田斐三郎、松川弁之助、備前喜三郎です。
 
箱館港内の船舶航行に支障をきたすとして、1896(明治29)年に台場は解体されます。担当した北海道海道大学の広井勇博士は、隅に鉄筋を入れるなどしていた斐三郎の技術力を高く評価しました。
 
 
箱館奉行所開設
 
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五稜郭内に建つ箱館奉行所(函館市中央図書館所蔵)
 
1864(元治元)年、箱館奉行の小出秀実(ひでみ)が元町の奉行所を移転させ、業務を開始しますが、最終工事は1866(慶応2)年までかかりました。しかし、実際は元町から5キロも離れた不便な五稜郭に役人が引っ越しをしたがらず、元町の旧奉行所を出張所扱いにして一部事務をとっていたそうです。
 
武田斐三郎は完成を見届けることなく江戸へ戻り、訪ねてきた新島襄とは行き違いとなります。襄が澤辺琢磨と福士成豊の手助けでアメリカへ密航するのは、この後の出来事です。
 
結局、五稜郭の箱館奉行所は明治維新までのわずか4年間しか使用されず、1868(明治元)年、江戸幕府最後の箱館奉行・杉浦誠から明治新政府の箱館裁判所総督(後の府知事)清水谷公考に業務が引き継がれます。実際の事務引き継ぎは、不幸にも京都で暗殺された坂本龍馬の家系を絶やさないために、明治政府の計らいで家督を相続した坂本直(当時の名前は権判事・小野淳輔)が行いました。
 
 
箱館戦争
 
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左:「画巻国史/函館五稜郭奮戦之図(錦絵)」(函館市中央図書館所蔵)
右:「五月十二日於五稜郭防禦戦之図」(函館市中央図書館所蔵)
 
1868(明治元)年10月26日、旧幕府の榎本軍に突如占領され、箱館府知事・清水谷公成は青森に逃亡、戊辰戦争最後の戦いが五稜郭で火ぶたを切りました。
 
奉行所は本来、箱館湾から見えないように五稜郭の土手より低く建築された、いわゆる「伏せ」の建物。しかし、箱館湾の各国軍艦を監視する役割の太鼓櫓のみが土手より頭を出しています。その結果、1869(明治2)年5月12日、官軍は箱館湾の軍艦甲鉄から3・5キロ先の奉行所の太鼓櫓を標的に五稜郭を砲撃。榎本軍の兵士10数人が死傷します。
 
直ちに榎本軍は、太鼓櫓を不法滞在で仮牢に収監していた清国人に切り落とさせましたが、再び官軍の砲弾で2名死亡の悲劇を生じました。
 
3キロ程度しか飛ばないと言われた大砲は、わずか十数年で性能が飛躍的に向上し、結果的に4キロ以上飛んだ計算になります。一方、榎本軍が五稜郭に持ち込み、据え付けた大砲による攻撃は、箱館湾に一発も届かない旧式でした。外国防備のために設けられた五稜郭は、外国との戦いでなく、国内戦でさえまったくの無力だったことを皮肉にも証明した訳です。戦いは五稜郭が攻撃された前日の5月11日、官軍総攻撃によって榎本軍は事実上の敗北を迎えました。
 
 
その後の五稜郭
 
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左:1927(昭和2)年頃の五稜郭公園(函館市中央図書館所蔵)
右:堀でボート遊びに興じる市民ら(函館市中央図書館所蔵)
 
箱館戦争後の五稜郭は、明治政府兵部省の管理下で、1873(明治6)年から1897(明治30))まで陸軍省の練兵場として利用されます。これに先立つ1871(明治4)年、開拓使本庁が札幌に移されたため、その庁舎を建設するための木材を必要とすることを理由に、奉行所庁舎や付属建物が解体されました。しかし、賊軍(榎本軍)の不浄な材木を使用できないと札幌から断れ、結局は建材の大部分が函館・蓬莱遊郭の建築に用いられることになります。
 
1913(大正2)年、函館区に無償で貸し与えられた五稜郭は、翌1914(大正3)年からは公園として一般開放されました。開放されたばかりの公園に、1878(明治11)年創刊の函館新聞を引き継いだ函館毎日新聞は1913(大正2)年5月12日に1万号に達したのを記念し、桜の木1万本の植栽を開始(10年後に完了)。以来、毎年4月下旬前後に、約1600本の染井吉野が花を咲かせるサクラの名所となりました。
 
郭内に顕彰碑として飾られる武田斐三郎は、こうした光景に何を感じていることでしょう。緑あふれる公園で家族が和み、堀では若人が無邪気にボートを漕ぎ、訪れる人の中には当時、敵対した外国人がまさか一緒とは。平和っていいものだと感慨にふけっているのではないでしょうか。
 
 
あとがき
箱館奉行所は、復元によって明らかとなった建物の構造や技法を単に学べるだけではありません。大正から昭和初期の函館の「ハイカラ」時代につながる原点というべき歴史的経緯に触れることにより、今一度函館の「今日」「明日」を考える拠点となることでしょう。
 
また、2009年は「北海道坂本龍馬記念館」(市内末広町8)、2010年は「旧相馬邸」(市内元町33)、そして「箱館奉行所」が公開されるなど、歴史的・文化的遺産を活かした新しい試みが相次ぎ、観光拠点としての期待がさらに強く寄せられています。どうぞ各施設に足を運び、その良さを体験されますように。
 
※執筆:箱館歴史散歩の会主宰 中尾仁彦(なかお とよひこ)

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