新型コロナウイルスの影響で休業・営業内容変更の場合があります
|
にいじまじょうかいがいとこうのちひ
後に同志社大学を創設する新島 襄が、国禁を犯してアメリカへ密航を企てたのが1864(元治元)年、その岸壁に記念碑が建てられている。
|
「一国の良心」ともいうべき人々を育成する――。同志社の校祖・新島 襄が目指した教育理念です。その基礎となったキリスト教を信仰し、英語を学ぶために上海経由でアメリカへと渡る起点となったのが、ここ函館(当時は箱館)です。
国防強化に消極的な幕府の姿勢に疑念を抱く一方、日本語訳された「ロビンソン・クルーソー物語」に感銘を受けるなど、海外志向の強かった襄(本名・七五三太〈しめた〉)。アメリカへの夢を日に日に募らせる中、21歳だった1864(元治元)年、チャンスが訪れます。かつて江戸から玉島(現在の岡山県倉敷市)までを航海した「快風丸」に再び乗船できることになり、幕府から監視の目が届きにくいと目論んで函館へ。名目上は武田斐三郎の塾に入門するためでしたが、江戸に戻っていた斐三郎とは結局、会えずじまいでした。
しかし、あくまでも願いはアメリカ行き。函館で知り合った襄のよき理解者・沢辺琢磨から、イギリス人経営の外国商館で支配人だった福士宇之吉(後の成豊)を紹介してもらい、箱館~上海間を航行するアメリカ船での脱国を企てます。表沙汰になれば、襄はもちろん、宇之吉も死罪になるところでしたが、計画は成功。帰国後の活躍は、誰もが知るところでしょう。
襄が脱国した場所は、かつての外国人居留地の岸壁で、函館港に浮かぶ「緑の島」に架かる橋「新島橋」の脇に位置します。地碑は、同志社大学から記念碑面を寄贈された1952(昭和27)年の2年後に建立。また、赤レンガ倉庫群方面へ2、3分ほど歩いた末広緑地には、海外渡航時の姿を再現した襄のブロンズ像が建っています。
関連記事
※hakobura 2009/4/1公開 2022/12 更新
|
|
新型コロナウイルスの影響で休業・営業内容変更の場合があります
電話番号 |
0138-23-5440 ※カーナビ検索には使えません |
|
|
眺望がいい、歴史好きに、英語看板