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あなたのテーマでディープな函館 「土方歳三・幕末」

箱館戦争の遺構、史跡「四稜郭」案内

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函館で五稜郭はおなじみですが、「四稜郭(しりょうかく)」もあったことをご存知でしょうか。箱館戦争の歴史を伝える史跡四稜郭は、五稜郭の後方を防御するための陣地として、北に3キロほど離れた丘陵地帯に作られました。観光のメインエリアから遠いところにあるため、タクシーやレンタカーなどで立ち寄るのが一般的ですが、路線バスと徒歩で訪れるアクセス法をご案内しましょう。また、その周辺にある箱館戦争に関する遺構も合わせて紹介します。


◆五稜郭を守る陣地として、箱館戦争中に築造された四稜郭



四稜郭は1869(明治2)年4月下旬、旧幕府軍と新政府軍が戦った箱館戦争の最中に、旧幕府軍の兵士約200名のほか、近隣住民約100名が動員されて急造されました。五稜郭と同じく西洋式の城郭で、北斗市の松前藩戸切地陣屋跡と同じ四つ角の星形、小ぶりながら蝶が羽を広げたような形が特徴です。


広さは約2,300平方メートル(五稜郭は125,500平方メートル)。四隅に五稜郭と同じく砲座が設けられ、稜堡の周囲には土塁(幅5.4メートル、高さ3メートル)と空壕(幅2.7メートル、深さ0.9メートル)を有します。ただ、築造当時から建物や井戸はなく、あくまでも旧幕府軍の防御のための陣地であったことが伺えます。


築造から間もない5月11日、約4000名の新政府軍が四稜郭へと迫り来る中、旧幕府軍も四稜郭から大砲で応戦(写真は砲座)。四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場(現在の神山稲荷神社)を奪われると、旧幕府軍は退路を断たれることを恐れて五稜郭へと撤退。四稜郭はわずかの期間で、五稜郭を守る陣地としての役割を終えます。


箱館戦争ののちも四稜郭は崩されることなく残され、1934(昭和9)年には国の史跡に指定されました。第二次大戦後の食糧難の折には耕作地に転用されるなどして荒廃したものの、1969(昭和44)年度から1972(昭和47)年度にかけて土塁などが復元され、現在では市民の憩いの場として開放されています(写真は、中の様子を見えなくするための入口の土塁「見隠塁(みかくしるい)」)。


◆四稜郭へのアクセス
(準備中)


◆番外編 箱館戦争関連の新旧東照宮に立ち寄り

【旧函館東照宮(権現台場)】

五稜郭が完成した1864(元治元)年、五稜郭の鬼門(東北)を守護するために建立された函館東照宮。箱館戦争の折には周囲に土塁が築かれ、東照宮に祭られる祭神である徳川家康の神号「東照大権現」から名をとって、「権現台場」とも呼ばれるようになりました。


箱館戦争で壮麗な社殿は焼失しましたが、五稜郭や弁天台場の石垣造りを手掛けた井上喜三郎作の御影石で作られた大鳥居は崩壊することなく現存。「奉 元治二年」の文字が読み取れます。今では東照宮跡に建つ神山稲荷神社の社宝として大切に守られています。


大鳥居をよくよく観察すると、当時の弾痕があちこちに残されています。


境内には、現在でも台場の土塁が残されています。

旧函館東照宮へのアクセス
58系統「神山1丁目」または「四稜郭入口」バス停下車、徒歩5分


【現在の函館東照宮(北海道東照宮)】

戦火で焼失した函館東照宮は1886(明治19)年に宝来町へ移り、1992(平成4)年に現在の陣川町へ移り、名前も北海道東照宮へと改められました。


旧東照宮由来の手水鉢(ちょうずばち)には、箱館戦争時の弾痕が残されています。

北海道東照宮へのアクセス
函館バス61系統「東照宮参道」バス停下車、徒歩5分


※記者X 2015/11/11取材、11/19公開 2022/5更新