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函館に歴史を刻んだ偉人①高田屋嘉兵衛

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写真:高田屋嘉兵衛(函館市中央図書館所蔵)

1769(明和6)年に淡路島で6人兄弟の長男として生まれ、22歳の時に船乗りとなるため、兵庫(現在の神戸市)に出ます。灘の酒を運ぶ樽廻船の水夫、沖船頭として勤めた後の27歳の頃、熊野灘沖での鰹網漁業で得た巨利を元手に、北前船への参入を決意。当時最大の帆船・辰悦丸(1500石積、約230トン)を建造し、船持船頭として独立を果たします。
辰悦丸で初めて箱館に来航したのは、1796(寛政8)年のこと。当時、近江商人が食い込む松前・江差が栄えていたのに対し、箱館は人口わずか3000人の寒村でした。嘉兵衛が箱館を本拠地としたのは、後にペリーが「綱知らずの港」と激賞した箱館港の安全性を重視。また、江戸にたびたび出入りし、蝦夷地を直轄地にするとの情報を幕府から事前入手していたため、奉行所を置く箱館の将来性に賭けたというのが最大の理由かもしれません。

1799(寛政11)年に幕府は、嘉兵衛に択捉航路の開設、翌年には17カ所の漁場開拓、さらに東回り航海用の造船を矢継ぎ早に命じます。その功績を認められて蝦夷地定雇船頭を任せられたほか、名字帯刀を許されるなど幕府との関係は強固なものとなります。1812(文化9)年、日露間の国境紛争に巻き込まれ、ロシアに捕らわれた嘉兵衛ですが、連行先のカムチャツカでロシアの信用を得て8カ月で釈放。2年前に松前藩の捕虜となっていたゴロヴニン艦長の釈放に尽力し、日露双方から感謝される民間外交に貢献します。

そんな傍ら、1806(文化3)年に発生した大火では、当時の箱館にあった全建物の半分にあたる350戸を焼失します。高田屋の店舗も被害に遭いながら、住民に米や古着を配ったほか、建築用材を津軽、秋田から仕入れて元値で販売します。そして、掘り抜き井戸や手押しポンプの整備、道路の改修、蝦夷地最初の造船所での新造船や修理を手がけるなど、積極的に公共投資をします。さらに、ハマグリやシジミの養殖、杉や松の移植など、巨大な富を地域復興に投じ、箱館の都市形成に大きな役割を果たしました。

その後、二弟の嘉蔵、三弟の金兵衛ら弟達ともに、言わば「高田屋兄弟商会」として経営をさらに強化。商品を厳選し、量目を明示した山高印の屋号は、本州で絶大な信頼がありました。嘉兵衛が薩摩の浜崎太平次、越前の銭屋五兵衛とともに三大豪商と呼ばれて成功したのは、旺盛なパイオニア精神、情報収集および品質管理の徹底に違いありません。

順風満帆に思えた商売も、いよいよ風向きが変わり始めます。高田屋の雇船が日高沖でロシア船と友好のために実施した「旗合わせ」が目撃され、多くの利権を奪われた松前藩と近江商人・藤野喜四郎は直ちに密輸入の嫌疑をかけて幕府に通告。嘉兵衛の政治力および財力に恐れを抱き始めていた幕府は、2代目金兵衛(嘉兵衛は6年前に死亡)を江戸で厳しく取り調べます。1833(天保4)年、箱館本店ほか3支店の財産は幕府に没収され、莫大な現金、船450隻、土蔵307カ所などその総額は当時の国家予算の25%に及ぶとの説もあるほどです。1869(明治2)年に政府は無罪としますが、没収財産の返還が一切ない理不尽なものでした。その後の箱館は、日本最初の開港場として栄誉を担い急速に近代都市して発展します。その基礎は、まさに嘉兵衛によって築かれたのです。
 
※執筆:箱館歴史散歩の会主宰 中尾仁彦(なかお とよひこ) 2010/08/01公開

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