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古地図・絵図で見る、函館の歴史
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街歩き
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歴史好きに
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函館には興味深い古地図や絵図がたくさん残されています。それらを眺めながら、函館の歴史を概観してみましょう。現在の函館がどのように成り立っていったかを理解すれば、街歩きが何倍も楽しくなります。
(Hakodate harbour 1854/ペリー艦隊が実測・作成した「箱館港図」をイギリス海軍が復刻刊行したもの *1)
【1】陸繋島の形成、縄文人の住む土地
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函館山は、太古の昔に火山の噴火によってできた島でした。その後、島と半島の間に砂州が形成され、約3000年前には、中央部分がくびれた独特の地形「陸繋島(トンボロ)」ができ上がりました。現在の市街地の主要部分はこの砂州の上にあります。
この地に人が住みはじめたのは5000年前ごろからといわれます。市内には、国宝の中空土偶が出土した南茅部地区の遺跡など、多くの縄文遺跡が残されています。
(空から見た函館山。函館山は昔、島だったことが想像できる *2)
【2】先住民族アイヌとの戦い、ロシアとの緊張
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本州から渡ってきた人々が函館山のふもとなどに住みはじめたのは14世紀ごろです。当時は、蝦夷(えぞ)とよばれた北海道の先住民であるアイヌが優勢で、移住してきた和人との間に何度も争いがありました。
17世紀になると、北方からロシア人が来て、樺太や千島などでその勢力を増してきます。それらの地に住むアイヌの帰属も含めて、ロシアとの勢力範囲の確定が、当時の幕府にとっては大きな問題となります。
(東蝦夷地屏風/18世紀末の函館から根室付近までの沿岸図の一部 *1)
【3】箱館開港、西洋文化の流入
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1854(嘉永7)年、幕府は米国使節ペリーとの間に条約を結んで開国し、箱館(当時の表記)と下田を開港場としました。ペリーは艦隊を率いて箱館にも来航し、「世界最高の良港」と絶賛しました。
開港当時の幕府は、外国との応接や防衛上の観点から、箱館を統治する役所を内陸部に移転しました。これが西洋式の稜堡式城郭である五稜郭です。
通商条約の調印に伴い、1859(安政6)年には横浜・長崎などと並んで開港され、アメリカ・イギリス・フランスなど西欧諸国との貿易が開始されました。その結果、外国商人の往来が盛んになり、西洋文化の流入がその後の函館の街並みの景観を決定づけることになります。
(ペリー航海記/ペリー艦隊付き絵師ハイネが函館山から描いた函館の港 *1)
【4】箱館戦争、新政府による北海道開拓
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1868(慶応4/明治元)年、崩壊した江戸幕府の脱走軍と明治新政府軍との戦争が始まりました。旧幕府軍には、元新撰組の土方歳三や幕府の軍事顧問団であったフランス人のブリュネ大尉らも参加。五稜郭を拠点として立てこもりましたが、箱館湾での海戦、市街地での戦闘を経て、新政府軍が勝利しました。
その後、明治政府は函館を北海道開拓の前進基地と位置づけ、青森との間の定期航路開始や、函館港の近代化を推進します。
(明治二巳五月仲之一日 海陸戦争並函館真景図/1869年初夏の箱館戦争 *3)
【5】近代都市への第一歩
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1879(明治12)年には、当時のイギリス領事ユースデンの呼びかけから、日本の都市公園の草分けの函館公園が開設されました。また、1889(明治22)年には、国内で2番目の水道が開設されました。
市内には外国人居留地も設けられ、元町界隈にはキリスト教系の女学校や教会、基坂には区役所・警察署・税関、大通り(現在の電車通り)には銀行や大商店が建ち並び、函館山のふもとはにぎわいをみせました。
(函館真景/1882年、街区改正後の函館市街 *1)
【6】青函連絡船開通、北洋漁業の基地
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1908(明治41)年、本州と北海道を結ぶ青函連絡船が開通し、函館は北海道の玄関口となります。また、1920年代には北洋漁業が始まり、大船団の出港地として、函館は未曽有の繁栄をとげます。
1933(昭和8)年には人口が20万人を超え、国内で9番目の大都市になりました。この時期に、函館港に面する一帯には巨大な倉庫群が建ち並びました(現在はショッピングモールの金森赤レンガ倉庫)。
(最近実測函館番地明細全図/連絡船の桟橋が描かれた1913年の市街図 *1)
【7】たび重なる大火と復興
![180130G07-2.jpg](/rails/active_storage/blobs/proxy/eyJfcmFpbHMiOnsibWVzc2FnZSI6IkJBaHBBbXhTIiwiZXhwIjpudWxsLCJwdXIiOiJibG9iX2lkIn19--4bc342409448193f72d47f0450d1c580d4c931c5/180130G07-2-thumb-500x373-42315.jpg?disposition=attachment&id=1689)
函館は海からの風が強いことや、水利の便に乏しかったことから、何度となく大火に見舞われました。当時の市街地の大半が焼失した1878、79(明治11、12)年の大火の後、函館山山麓の坂の直線化と拡幅が行われ、その区割りは、今日まで続いています。
1907(明治40)年の大火は、約1000人の死傷者を出し、また町の中心部の大半を焼き尽くしました。しかし、経済的実力を蓄えてきた市民の力で、すみやかな復興が成し遂げられます。旧函館区公会堂、旧相馬邸、旧イギリス領事館、カトリック元町教会、ハリストス正教会など、函館に現存する歴史的建造物の大半は、この大火以降に建てられたものです。
1934(昭和9)年の大火は、死者2000人以上、市街地の半分以上が罹災しました。大火後の復興計画は、最大幅員55メートルの防火帯を市内に縦横に配するという、斬新なものでした。現在、大規模なグリーンベルト(緑地帯)が市街地の骨格を形作っていることが、函館山山頂から確かめられます。
(函館大火説明図/1934年大火の罹災図 *1)
【8】第二次世界大戦を経て観光都市へ
![180130G08b.jpg](/rails/active_storage/blobs/proxy/eyJfcmFpbHMiOnsibWVzc2FnZSI6IkJBaHBBbTFTIiwiZXhwIjpudWxsLCJwdXIiOiJibG9iX2lkIn19--c4494f8eaea88526c4272e837a71c26eba2e825c/180130G08b-thumb-500x124-42322.jpg?disposition=attachment&id=1690)
第二次世界大戦の最終段階で函館はアメリカによる空襲を受け、青函連絡船の大半が撃沈されました。当時は函館山に要塞が築かれていましたが、これらの攻撃にはほとんど対抗できませんでした。
戦後、函館は観光都市として歩んでいきます。1958(昭和33)年には函館山ロープウェイが開設され、市街地の夜景は、ナポリ、香港とならぶ「世界三大夜景」として多くの観光客を楽しませています。また、1964(昭和39)年には五稜郭タワーが竣工、五稜郭の星形の掘割を一望できるようになりました。
1988(昭和63)年の青函トンネル開業に伴い、青函航路は終了しました。2016(平成28)年3月、その青函トンネルを通って北海道新幹線が開業し、東京から4時間台の陸路の旅が現実となりました。
(函館鳥かん図/1948年の函館を描いた観光用鳥瞰図 *1)
2018/1/29公開
この記事は、Travel Hakodateで公開中の「About Hakodate - History」の日本語版です。
*2 函館山ロープウェイ提供
*3 市立函館博物館所蔵